ホノルル点描
第 44 回 : 砂糖生産の名残り「ワイアルア製糖工場跡」

画: 西川幸夫

 

 
ノースショアのワイアルアにある「ワイアルア製糖工場」の歴史は、今から百四十 余年前にさかのぼる。一八六四年、リーバイ・チャンバーレイン氏は、ワイアルア の空き地が砂糖耕作に適していることに目を付け、製糖工場を設立した。
 
南北戦争時代、本土の砂糖生産が減ったため、この製糖工場は全盛を極めたが、一八六五年の南北戦争終結と共に衰退し、一八七〇年頃、製糖工場は銀行に担保として取られた。
 
一八七五年、製糖工場は、ロバート・ハルステッド氏が買い取り、「ハルステッド ・ブラザーズ」という製糖会社を設立した。しかし、採算が合わず、会社は更に「キャッスル&クック社」に売却された。
 
「キャッスル&クック社」は、工場を近代化すると共に、近隣の農地を購入したり賃 借権を得て、一八九八年に「ワイアルア農業社」を設立した。一九三〇年代半ばには、 「ワイアルア農業社」は、ハワイでも有数の製糖会社として全盛を極め、一万エーカ ー以上の砂糖耕地があった。千七百人の従業員は、敷地内の社宅に住み、この村は通称キャンプと呼ばれた。
 
「ワイアルア農業社」は、一九八五年にデイビッド・マードック氏に売却され、「ド ールフーズ社」系列の「ワイアルア製糖社」を設立した。しかし、ハワイの製糖会社 は、次第に賃金の安い外国との価格競争を強いられ、経営が厳しくなった。この情勢に引きつれ、一九九三年から「ドールパイナップル社」の経営陣が「ワイアルア製糖 社」の運営も始めたが、経営は益々悪化し、「ワイアルア製糖社」は、一九九六年十月四日に閉鎖した。
 
その後、「ワイアルア製糖社」の建物の一部は取り壊され、残りの建物は、現在「ド ールフーズ社」の「ワイアルア・コーヒー」やカカオの乾燥醗酵工場となり、コーヒ ーを販売する店舗や、サーフボード工場、石鹸工場、自動車修理店などが入店してい る。
 
かつてオアフ島には、この「ワイアルア製糖社」の他、「カフク・プランテーション社」 、「エワ・プランテーション社」、「ワイマナロ製糖社」、「ワイアナエ社」、アイエアの「ホノルル製糖社」、ワイパフの「オアフ製糖社」など、各地に製糖工場があった。 ワイパフの「オアフ製糖社」は、一九九五年に閉鎖したが、その工場跡の近くに、「ハ ワイ・プランテーション・ビレッジ」というハワイの砂糖生産の歴史博物館が一九九二年に設立され、現在週六日開館している。
 
ハワイの砂糖生産は、一八三五年にカウアイ島コロアに砂糖きびの耕作をしたことから始まる。一八三七年、ここで初めて二トンの粗糖を生産して以来、ハワイの砂糖生産は、水不足、労働者不足、交易問題、市場不足など、様々な問題を抱えながら次第に発展し た。
 
砂糖生産が伸びるにつれ、労働者不足となり、一八五二年から、中国、ポルトガル、プエルトリコ、日本、韓国、フィリピンから沢山の人が労働者としてハワイに移住し、混血も生まれ、これらの移民労働者が、現在メルティングポット(人種のるつぼ)と呼ばれるハワイの多民族社会を形成する基盤となった。
 
砂糖生産は、一八七六年には、年間一万三千トン、一九三二年には百万トン生産するようになり、以来一九八〇年代中頃まで、毎年約百万トンの生産を続け、ハワイの主要産業として君臨した。しかし、ハワイの砂糖生産は、次第に外国に押され始め、衰退の一途をたどった。一九九〇年代には、ハワイの製糖会社は次々と閉鎖し、現在は、カウアイ島とマウイ島に一社ずつ残すのみとなった。
 
文:榊原 百合惠
<<- ホノルル点描 の目次に戻る